[ほ]で始まる語句・ことわざ
箒で掃いて箕ではかるほどある(ほうきではいてみではかるほどある):【意味】たくさんある、「掃いて捨てるほどある」ということ。(講談・伊賀の水月、伊達政宗の堪忍袋、田宮坊太郎)
暴虎馮河の勇(ぼうこひょうがのゆう):【意味】「論語」より。虎に素手で立ち向かい、黄河を徒歩で渡ること。命知らずの行為を平気ですること。血気に任せた、向こう見ずの勇気をいう。(講談・太閤記)(参照)→徒に事を好むは、これ匹夫の勇
坊さんにも方便(ぼうさんにもほうべん):【意味】僧侶には、衆生を深遠な教えへと導くために、ひとまず耳当たりの良い教えを与えるというテクニックがあり、これを方便というが、これも一種の嘘である。宗教家にもそうした手立てがあるのだから、一般の人々の生活に嘘が満ちているのは当たり前のことではないか、ということ。(落語・高田の馬場)
坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い(ぼうずがにくけりゃけさまでにくい):【意味】ある人を憎く思う余り、その人にかかわるもの全てが憎たらしく思えるようになることをいう諺。(講談・清水次郎長、笹野名槍伝、岩見重太郎、祐天吉松)
坊主丸儲け(ぼうずまるもうけ):【意味】僧侶は元手いらずで儲ける、おいしくこたえられない職業であるということ。(講談・一休禅師)
疱瘡は器量定め、麻疹は命定め(ほうそうはきりょうさだめ、はしかはいのちさだめ):【意味】痘瘡の重い軽いが子供(人)の器量を左右し、麻疹の重い軽いがその子が無事に育つかどうかの試練になった、という昔の諺。(講談・大久保彦左衛門、落語・妾馬、本所七不思議)
棒ほどに願って針ほどに叶う(ぼうほどにねがってはりほどにかなう):【意味】世の中はうまくいかないので、どうせなら望みは大きく持たなければいけない、という教え。現実的にみて、大きな望みを持っても、実現するのはそのうちのごくわずかなのであるから、あらかじめ分不相応なくらいの望みを持つのがちょうどいいのである。(講談・太閤記、慶安太平記、落語・塩原多助一代記)
朋友は位あり(ほうゆうはくらいあり):【意味】「持つべきものは友人である」ということを意味する言い回し。(講談・矢田五郎右衛門)
頬返しがつかない(ほおがえしがつかない):【意味】口にほおばったものをかみこなすことができないこと、つまりにっちもさっちもいかないことの例え。「方返し」と表記するケースもある。(講談・梁川庄八、落語・文七元結、樟脳玉)
ボクが割れる(ぼくがわれる):【意味】「ぼく」とは隠している昔の悪事のこと。前科がバレる、というような意味。(講談・祐天吉松、天明白浪伝:「ぼく」のみ)
朴念仁(ぼくねんじん):【意味】融通の利かない分からず屋で野暮な者を罵ってこういう。(落語・五人廻し、笠碁)
星の数ほど男はあれど、月と見るのはぬしばかり(ほしのかずほどおとこはあれど、つきとみるのはぬしばかり):【意味】遊女の客に対する殺し文句。たくさんお客はあるけれど、本当に惚れた男というのはおまえだけだよ、というのだが、騙されてはならない。(講談・関東七人男、玉菊燈籠)
星ひとつ見つけし夜半のうれしさは月にもまさる五月雨の空(ほしひとつみつけしよわのうれしさはつきにもまさるさみだれのそら):【意味】その日暮らしの日雇取りは、雨が降れば仕事がなくなってしまうから、梅雨時は飯の食い上げである。夜空が晴れていて星が見え、明日は晴れると分かったときは、風流に月を見るよりも数段嬉しいものである、ということ。(講談・矢田五郎右衛門)
北国(日光)の雷できたなり(ほっこくのかみなりできたなり):【意味】「着たきり」であること。貧乏で着替えがないこと。そうあからさまに言いにくいのでシャレているわけである。(講談・寛永三馬術)
仏頼んで地獄へ落ちる(ほとけたのんでじごくへおちる):【意味】「任せておけ」と言うので、絶対の信頼を寄せていた人が頼りにならず、心底がっかりすることの例え。(講談・伊賀の水月)
仏作って魂入れず(七堂伽藍建立して入仏供養しねえも同じ)(ほとけつくってたましいれず):【意味】せっかく苦心して物事を成し遂げながら、肝心なところが欠けているため完成にはほど遠い出来になってしまっていることをいう。「~眼入れず」=「画竜点睛を欠く」の意、とも。(講談・寛永三馬術、鼠小僧次郎吉、越後伝吉、小猿七之助、本所五人男、新吉原百人斬り、落語・大工調べ、浜野矩随、仔猫)《い》
仏の顔も三度(、堪忍も過ぎれば馬鹿になる)(ほとけのかおもさんど):【意味】「仏の顔も三度撫づれば腹立つ」の略であるという。どんなに温和な人でも、無理無体なことを何回もされれば怒り出す、ということ。(講談・清水次郎長、天保六花撰)《い》
郭公自由自在にきく里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里(ほととぎすじゆうじざいにきくさとはさかやへさんりとうふやへにり):都会繁華の地では風流を味わうことが難しい。雑音が少なく心に汚れのない田舎住まいの人の方が、かえって本物の風流を心得ているものだという意味の狂歌。(落語・野ざらし、やかん)
郭公は死出の田長、八千八声血に啼く(ほととぎすはしでのたおさ、はっせんやこえちになく):ほととぎす(ここではいわゆる「かっこう」ではない)は、死出の山から幽冥の境を越え、田植えを督励しに来る鳥であるとされた。「シデノタオサ」は鳴き声に由来するという。甲高い声で鳴き、喉が赤くみえるため「鳴いて血を吐く」という。(講談・太閤記)
骨折り損のくたびれ儲け(ほねおりぞんのくたびれもうけ):【意味】苦労した甲斐がないこと。無駄骨を折ること。徒労に終わること。(落語・猫の皿、鼻ほしい)《い》
骨かくす皮にはだれも迷うなり、好きもきらいも皮のわざなり(ほねかくすかわにはだれもまようなり、すきもきらいもかわのわざなり):【意味】一休禅師の歌という。しゃれこうべの上にかぶった皮次第で人の顔の美醜が決まる。一皮剥げばみな同じ骨であるから、あの人が好きの嫌いのといってみてもそれは単に「表面」の問題にすぎない。(講談・新吉原百人斬り、落語・天神山)(参照)→骸骨の上を粧うて花見かな
骨かくす皮には誰も迷ふらん皮破るれば斯くの姿ぞ(ほねかくすかわにはだれもまようらんかわやぶるればかくのすがたぞ):【意味】前項の類歌。美女と骸骨を対比して、容貌にこだわることの愚かさ、世の無常を説いた一休禅師の歌であるという(どっちが本当に禅師の作かは分からない)。(落語・手飼の犬)
骨が舎利になっても(ほねがしゃりになっても):【意味】火葬して、骨が舎利(焼け残りの骨)になっても、ということ。=どんなことがあっても、死んでも、いかなる困難があろうとも。(落語・梅若礼三郎、居残り佐平次)
惚れたが弱味(ほれたがよわみ):惚れた(と先に見抜かれた)側が恋愛関係では主導権を握られ、いいようにあしらわれる、という意味。(講談・鼠小僧次郎吉)
惚れて通えば千里も一里、長い田圃もひと跨ぎ(ほれてかよえばせんりもいちり、ながいたんぼもひとまたぎ):【意味】ここでは遊里(吉原)に馴染みの女がいて、そこへ通う男の心理をいう言葉。どうしても逢いたいと思う相手の元へなら、千里をも遠しとしないのである。(落語・首ったけ)
本阿弥(ほんあみ):【意味】刀剣鑑定の家名。一般に鑑定家、目利きのことをいう。(落語・酢豆腐)
盆画盆石和歌糸竹(ぼんがぼんせきわかしちく):【意味】盆画・盆石は盆の上に小石や砂で絵や庭を美しく形作ること、糸竹は弦楽器の嗜み。(主に女性の)芸事や風雅な趣味全般をさす。「~歌俳諧」とも。(講談・西郷南洲、鰯屋騒動)
盆が見えない(ぼんがみえない):【意味】博打の盆の上が読めない=洞察力に乏しい、場の空気が読めない、の意。(落語・突き落し)
盆暮れに半纏の一枚も貰う(ぼんくれにはんてんのいちまいももらう):【意味】職人が商家などに出入りを許されること。(落語・三軒長屋)
本郷もかねやすまでは江戸の内(ほんごうもかねやすまではえどのうち):【意味】一般にいう江戸の街の範囲を示す川柳。本郷でも、三丁目の歯医者兼薬店・兼康祐悦(看板を中山安兵衛が書いたことで知られる)までが「江戸」と呼んで差し支えない範囲なのだ、ということ。実際には「江戸」の範囲はもっと広かった。(講談・和久半太夫、祐天吉松)
本所に蚊がいなくなりゃ大晦日(ほんじょうにかがいなくなりゃおおみそか):【意味】「本所」の読みは慣用としては「ほんじょう」。本所・深川は蚊の多いところで、冬になってもいなくならない。それが絶えた頃が大晦日である、ということをいう川柳。「本所は蚊が名物」という表現は人情噺「乳房榎」にもある。なお、「浅草に蚊がなくなれば師走かな」という句も落語「野ざらし」「姫かたり」にあり、昔の東京には実に蚊が多かったことが偲ばれる。(落語・唐茄子屋、乳房榎)(参照)→江戸で本所だの深川だのと言うが、川崎の蚊といえば大したもの
本所に過ぎたるものが二つあり津軽大名炭屋塩原(ほんじょうにすぎたるものがふたつありつがるだいみょうすみやしおばら):【意味】貧困から身を起こし、本所相生町で薪・炭を商って、一代で巨富を得た塩原多助(実際は太助)を、津軽十万石と並んで本所名物として讃えた狂歌。(落語・塩原多助)
ぽんつく(ぽんつく):【意味】「不平不満を言う」こと。動詞。(落語・五人廻し)
盆の上の借り貸しは地頭へのおさめ年貢からみると几帳面(ぼんのうえのかりかしはじとうへのおさめねんぐからみるときちょうめん):【意味】バクチの上での金の借り貸しというものは、お上への年貢納めなんかよりもずっときちんとけじめをつけなければいけないものなのだ、という博徒の主張。(講談・関東七人男)
盆の上の豆のように(ぼんのうえのまめのように):【意味】一時も休まずくるくるとよく働く、という形容。(講談・幡随院長兵衛、慶安太平記、落語・鼠穴)
煩悩の犬(は)、追えども去らず、菩提の鹿は招けども来たらず(ぬ恋の道)(ぼんのうのいぬはおえどもさらず、ぼだいのしかはまねけどもきたらず):【意味】恋の妄執に取りつかれた男が、振られてもあきらめきれない、あるいは中年男が年甲斐もなく若い娘に夢中になるような場合に使う常套表現。理性では思いを断ち切らなければならないと分かっていながら、リビドーが抑えられないのである。(講談・水戸黄門、猿飛佐助、鎌倉星月夜、安中草三郎、本所五人男、鰯屋騒動、落語・宿屋仇、西行)
凡夫盛んなる時は神も祟りなし(ぼんぷさかんなるときはかみもたたりなし):【意味】凡人が何かのはずみで勢いを得て増長しているときは、あえて天罰も下らないのである、という諺。ただし悪事をなすときは話が別である。(講談・おこよ源三郎、祐天吉松、緑林五漢録、落語・骨違い、牡丹燈籠)(類義)→人盛んなる時は天も暫く是を置く、人さかんなれば天にかつ、悪盛んなるときは天に勝ち、天定まって人に勝つ
編:松井高志・2004-
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